NS号は何が「日本初」だったのか──年も年齢も、資料で割れています
いちばん「いいね」が付いたコメントは、称賛ではなく『サス無しで時速40kmは無理では』という疑問でした。その数字がどこまで確認できるのか、そして1908年か1909年か、21歳か22歳かという食い違いを、文献と公的な記録から整理します。
「サス無しの車体で、当時の未舗装の多い環境で40kmは、結構無理ゲーに近いと思いますぞよ」
動画に付いた24件の親コメントのうち、いちばん多くの「いいね」(85)を集めたのは、称賛ではなくこの疑問でした。
先に申し上げます。動画で使った「時速40km」という数字は、一次に近い資料では確認できませんでした。 言い切ったのは行き過ぎでした。この記事のほうを正としてください。
そして、調べ直して分かったことがあります。この話は「どれだけ速かったか」ではなく、「どこまで自分で作ったか」の話でした。そちらは、複数の資料が一致して伝えています。
「日本初」がいつなのか、資料で割れています
まず、いちばん厄介なところから。国産第1号がいつのことなのか、資料によって年が違います。
- 1909年(明治42年) … 二輪文化を伝える会(NPO法人)の日本バイク年表。「大阪で設立した島津モーター研究所にて、島津楢蔵が4サイクル400ccのガソリンエンジンとその車体を自作」
- 1908年(明治41年) … 二輪車新聞の記事。「日本の国産二輪車第一号が世に出たのは1908年(明治41年)とされる」。車名の表記も「NS1号」
車名の表記まで割れています。 どちらかが間違い、という話ではありません。何をもって「1号」と数えるかが違うのです。
順を追うと、こうなります。
- 1908年:2サイクルエンジンを製作し、自転車のフレームに載せて走行した
- 1909年:4サイクルエンジンを製作し、自ら作った車体に載せて完成させた。これが「NS号」
つまり、1908年に「エンジンを載せた乗り物」は走っている。ただし車体は自転車の流用でした。
興味深いのは、島津さん本人がこれを完成と認めなかったという記述が残っていることです(ZuttoRide Clubのコラム。本人の著書『モーターサイクル』の記述に基づくとしています)。作った本人が「まだだ」と言った——だから翌年、4サイクルで作り直した。
21歳か、22歳か
動画のタイトルでは「21歳の若者」としました。ここも資料が割れています。
- 二輪文化を伝える会:「22歳の青年の手によって、国産初のオートバイが作られた」
- 同会が引用する富塚清『日本のオートバイの歴史』(三樹書房):「この年、島津氏は22歳にすぎず、この若さでこの時代に、よくここまでやったものと感心する次第である」
- ZuttoRide Clubのコラム:NS号完成時を「当時21歳」
食い違いの正体は、おそらく数え方です。島津楢蔵さんの生年月日は1888年(明治21年)4月10日(二輪文化を伝える会)。NS号の完成が1909年9月とすれば、満年齢では21歳、数え年では22歳になります。
どちらも間違いではありません。 ただ、動画で「21歳」と言い切った以上、文献側は「22歳」と書いていることは、あわせてお伝えしておくべきだと思いました。
彼が自作したものの一覧
ここが、この話の本体です。
富塚清の記述を、二輪文化を伝える会の引用から孫引きします。
このエンジンの容量は、400cc。自動負圧式吸入バルブ、キャブレターも点火プラグも、イグニッションコイルも自製で、電源は乾電池。点火時期調整は手動であったと記されている
エンジンを作った、という話ではないのです。
- 燃料と空気を混ぜる装置(キャブレター)
- 火花を飛ばす部品(点火プラグ)
- その火花のための高電圧を作る装置(イグニッションコイル)
- 車体のフレーム
これらをすべて自分で作っています。 これ以前の「国産車」が輸入部品を組み立てたものだったのに対し、NS号は部品のほとんどが日本製の材料から作られたため、「純粋な国産車第1号」と位置づけられている、というのが各資料に共通する説明です。
なお、「点火時期調整は手動」という一行が、当時を最もよく表していると思います。走りながら、進角・遅角を自分の手で合わせる。 今のバイクが自動でやっていることを、乗り手がやっていた時代です。
カムを使わない吸気弁
「自動負圧式吸入バルブ」という耳慣れない言葉について、もう少しだけ。
月刊オートバイの別冊付録の記述では、こう説明されています。
吸入は当時の外国車と同様、自動吸入弁(オートマチック・バルブ)式。これはカムを使わず、弱いバルブスプリングを使い、ピストンの吸入作用により自動的に吸入弁を開かせるというシステム
カムシャフトで押し開けるのではありません。 ピストンが下がってシリンダー内が負圧になると、その吸い込む力だけで弁が勝手に開く。バネは、閉じるためだけに入っています。
部品は減りますが、回転を上げられません。 負圧で開く以上、ピストンの速さに弁が追いつかなくなるからです。当時の外国車も同じ方式だったと書かれており、遅れていたのではなく、それが当時の標準でした。
「時速40km」という数字に、私が確証を持てなかった理由のひとつがここにあります。 この吸気方式で400ccという構成から出せる速度は、資料に当たらないかぎり推測になってしまいます。
平ベルトではなく、Vベルトを選んだ
いっぽうで、当時の標準を追い越していた部分もあります。
駆動には革を合わせて作られた特注のVベルトが用いられた。当時進歩的だったアメリカ製オートバイでさえ平ベルトを使用していた時代にあって、そのこだわりが感心された
アメリカ製でさえ平ベルトだった時代に、Vベルトを使った。
平ベルトは、断面が平らな帯です。プーリーに巻き付いているだけなので、強い力をかけると滑ります。 Vベルトは断面がくさび形で、プーリーの溝に食い込みます。くさびが食い込むぶん、同じ張り具合でも大きな摩擦力が生まれる。 同じ幅なら、平ベルトよりはるかに大きな力を伝えられます。
国内にVベルトを作れるメーカーがなかったため、ベルトメーカーを回って必要性を訴え、皮とキャンバス生地を組み合わせて作らせたという記述もあります(ZuttoRide Clubのコラム)。
そして3年後、40台を売った
NS号は1台限りの試作でしたが、話はそこで終わっていません。
同じコラムによれば、1912年、島津さんは「N.M.C.号」を製造しています。 Nippon Motor Cycleの頭文字で、40台ほどが作られたとされています。NS号のエンジンを改良し、市販車としての耐久性を考えて排気量を240cc程度に抑えたという記述です。
1台作った人ではなく、40台売った人でもあった。 「日本初の純国産市販バイク」をどこに置くかという議論があるのは、この一台があるからです。
「ホンダより40年前」を数え直す
動画のタイトルでは「ホンダより40年前」としました。実際の年数を確かめておきます。
Hondaの公式記録では、本田技術研究所が浜松市山下町で自転車用補助エンジンの生産を始めたのが1946年10月、本田技研工業株式会社の設立が1948年9月24日です。
NS号の1909年から数えると——
- 本田技術研究所の始動(1946年)まで 37年
- 本田技研工業の設立(1948年)まで 39年
「40年前」は、丸めた数字でした。約40年前、あるいは39年前が正確です。誤差の範囲ではありますが、動画で「40年」と言い切った以上、書いておきます。
いま、現物で確かめられること
明治42年の車両そのものは、簡単には見られません。ですが、この話が今も残っている場所はあります。
- スクーターに乗っている方は、カバーの中を思い浮かべてください。 ベルト式の無段変速(CVT)に使われているのは、今もVベルトです。外からは見えませんが、島津さんが平ベルトを退けて選んだ断面の形が、そのまま生き残っています
- お手元のバイクの排気量を見てください。 NS号は400ccでした。今の普通自動二輪免許で乗れる上限と、たまたま同じ数字です
- キーをひねればエンジンがかかることを、一度だけ意識してみてください。NS号では、火花を飛ばすタイミングを、乗り手が手で合わせていました
- 島津楢蔵さんは、2014年に日本自動車殿堂入りしています。日本自動車殿堂(JAHFA)の殿堂者ページに、「国産二輪車第一号生みの親/島津モーター研究所・日本モータース代表」として掲載されており、詳細記事と表彰状がPDFで公開されています
コメント欄から
いやっ、サス無しの車体で、当時の未舗装の多い環境で40kmは、結構無理ゲーに近いと思いますぞよ。
道路のほとんどがオフロード。街を離れたら林道では、あのバイクで40㎞出すのは、確かに命がけ。
道路事情に触れたコメントは、24件の親コメント中5件にのぼりました。ご指摘の通りです。時速40kmという数字を、私は一次に近い資料で確認できていません。 動画のほうが言い過ぎでした。
補足すると、「出せるかどうか」と「出して走れるかどうか」も別の話です。仮にエンジンがその速度を出せたとしても、当時の路面とブレーキで実際に出す場面があったかは、また別に確かめるべきことになります。
島津ってあのSHIMADUかな 測定器とか作ってるあそこ?
同じ疑問が2件ありました。 事実として確認できる範囲でお答えします。
- 株式会社島津製作所:創業は明治8年(1875年)3月31日、創業者は初代島津源蔵、創業の地は京都・木屋町二条、事業は「理化学器械製造の業」(同社公式の沿革)
- 島津楢蔵:1888年生まれ、大阪船場の貴金属商の長男(二輪車新聞)
創業年も、土地も、家業も違います。 そして私が確認できたどの資料にも、両者を結びつける記述はありませんでした。 「関係がない」と断定はできませんが、関係があるという根拠も、この記事では確認できていません。
確かプラグも国産で、電線の碍子を製造する会社で作って貰ったんだよね。
ここは資料と食い違う部分です。 富塚清の記述では「点火プラグも、イグニッションコイルも自製」とされています。いっぽうで、当時の日本に絶縁体(碍子)の技術を持つ会社があったことは事実で、碍子メーカーの協力があったという伝承があっても不思議ではありません。どちらが正しいか、この記事では判断できません。 富塚の記述を採ったうえで、こういう説もある、と併記しておきます。
時速40km/h=男子陸上100mの世界記録並みだな。
この換算は正確です。 100mを9秒58で走ると平均は時速約37.6km。「40km/h並み」は、平均速度としては少し速めですが、桁は合っています。
ライト兄弟よりも先に飛行機を飛ばした日本人。知られていない天才は時代の先を行く。
別の人物のお話かと思いますが、島津さん自身も航空に進んでいます。 二輪車新聞によれば、1916年(大正5年)、帝国飛行協会と朝日新聞社が主催した「航空機エンジン試作懸賞」で第1位を獲得しました。さらに戦後は東洋工業(現マツダ)でオート三輪の「三角フレーム」を開発し、その特許を開放したと記されています。
バイクだけの人ではありませんでした。
この記事で確かめた範囲
明治期の記録は、一次資料そのものに当たれる範囲が限られます。 この記事で「確認できた」と書いているのは、 NPO法人・業界紙・公的な顕彰機関・当時の文献の引用までです。 年・年齢・速度のように資料が割れている部分は、割れたまま提示しました。 ひとつに丸めないほうが誠実だと考えたためです。
出典
引用元
- 二輪文化を伝える会(NPO法人)「1909年(明治42年)島津楢蔵 国産1号車 NS号 完成」(大阪で設立した島津モーター研究所にて、島津楢蔵が4サイクル400ccのガソリンエンジンとその車体を自作/22歳の青年の手によって、国産初のオートバイが作られた/この前年(1908年)に2サイクルエンジンを、次いでそのエンジンを自転車のフレームに搭載して走行/革を合わせて作られた特注のVベルト/当時進歩的だったアメリカ製オートバイでさえ平ベルトを使用していた時代)。同ページが引用する富塚清『日本のオートバイの歴史』三樹書房(このエンジンの容量は、400cc。自動負圧式吸入バルブ、キャブレターも点火プラグも、イグニッションコイルも自製で、電源は乾電池。点火時期調整は手動/この年、島津氏は22歳にすぎず):2rin-tsutaeru.net
- 二輪文化を伝える会 人物録「島津楢蔵」(1888年(明治21年)4月10日 – 1973年(昭和48年)6月21日/2014年に日本自動車殿堂入り):2rin-tsutaeru.net
- 日本自動車殿堂(JAHFA)殿堂者ページ(国産二輪車第一号生みの親/島津モーター研究所・日本モータース代表、詳細記事・表彰状のPDFを公開):jahfa.jp
- 二輪車新聞「国産二輪車の父、島津樽蔵氏を偲ぶ 島津モータース『NS1号』」(日本の国産二輪車第一号が世に出たのは1908年(明治41年)とされる/大阪船場の貴金属商の長男/1916年(大正5年)帝国飛行協会と朝日新聞社の主催する「航空機エンジン試作懸賞」に応募し、見事に第1位/東洋工業(現マツダ)で三角フレームを開発し特許を開放):nirin.co.jp
- LAWRENCE(Motor Magazine Media)掲載、月刊オートバイ別冊付録『不朽の日本車102年史』からの引用(エンジンは4ストローク単気筒400cc/自動吸入弁(オートマチック・バルブ)式。これはカムを使わず、弱いバルブスプリングを使い、ピストンの吸入作用により自動的に吸入弁を開かせるというシステム):lrnc.cc
- ZuttoRide Club コラム「こんなバイクがあったんだ!『NS号(日本)』」(1908年の2サイクル車を本人が完成と認めなかった/1909年9月に完成/当時21歳/Vベルトを国内メーカーに作らせた/1912年にN.M.C.号を40台ほど製造、排気量は240cc程度):zuttoride.jp
- 株式会社島津製作所 公式 沿革(理化学器械製造の業を始めたのは明治8年(1875年)3月31日/創業者初代島津源蔵/創業の地木屋町二条):shimadzu.co.jp
- 本田技研工業 公式「本田技研工業 75年史」(1946年10月、本田技術研究所は浜松市山下町で自転車用補助エンジンの生産を開始/1948年9月24日、浜松市板屋町に本田技研工業株式会社を設立):global.honda
確認できていないこと
- NS号の最高速度。 「時速40km」という数字を、上記のいずれの資料でも確認できませんでした。動画の記述は訂正します
- 出力(馬力)、車重、実際の走行距離。 いずれも確認できていません
- 「1908年」と「1909年」、「21歳」と「22歳」、「NS号」と「NS1号」。 資料によって異なります。本文では両論を併記しました
- 点火プラグを碍子メーカーが製作したという説。 コメントでいただいた情報ですが、文献側は「自製」としており、確認できていません
- 島津楢蔵と株式会社島津製作所の関係。 結びつける記述は確認できませんでした。無関係と断定もしていません
- N.M.C.号の台数(40台ほど)と排気量(240cc程度)。 上記コラム以外の資料では確認できていません
- 1916年の航空機エンジンの形式(二輪車新聞は「ル・ローン式(通称ロータリ・エンジン)空冷V型8気筒90馬力」と記述)は、他の資料で裏が取れていないため本文では触れていません
- 懸賞金の額(2万円)は記録に残りますが、現在の貨幣価値への換算は行いません(換算方法によって桁が変わるためです)
本記事のチェックポイント
- 時速40kmという数字は、一次に近い資料で確認できませんでした。 動画のほうが言い過ぎでした
- 「日本初」の年は1908年と1909年で割れています。 自転車フレームの試作を数えるかどうかの違いです
- 年齢も21歳(満)と22歳(文献)で割れています。 生年は1888年4月10日です
- 資料が一致しているのは速さではなく、キャブレターも点火プラグもコイルも車体も自作したという点です
- アメリカ製でさえ平ベルトだった時代に、Vベルトを選びました。 今のスクーターのCVTと同じ考え方です
- 「ホンダより40年前」は丸めた数字でした。本田技術研究所の始動(1946年)まで37年、本田技研工業の設立(1948年)まで39年です
